2009年 06月 27日
ハイエクのニヒリズム
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ハイエクの政策論的ニヒリズム
過去二十年近く、わが政府の経済政策スタンスは、新自由主義ないし新古典派経済学の政策論への追随であった。論壇やマスコミの主流も、それを肯定し促進しようと努めてきた。
新自由主義の最大のカリスマ的指導者は、言うまでもなく、ハイエクであった。ハイエクは、ミーゼスとともに、早くも1920年代後半の時期から、市場メカニズムを十分に活用しえない社会主義の命令経済体制では、合理的な経済計算が不可能になることによって経済の効率や作動が決定的に損なわれるにちがいないとして、早晩、そのような体制は崩壊するにいたるであろうと、鋭い批判的な予測を行なった(『集産主義計画経済の理論』、原書公刊は1935年)。これに触発されて、未曾有の大論争「社会主義経済計算論争」が戦後まで繰り広げられたのであるが、結局、学界の定説としてもハイエクやミーゼスの分析が正しいとされ、そして、まさに、そのような所論の通りに、ソ連・東欧共産圏の社会主義的な命令経済体制は滅びてしまったのである。ハイエクは、そのような彼の基本ビジョンの延長・拡大として、市場メカニズムと法治国家原則とが不可分であることを精緻に考察し、市場経済システムの存在こそが自由社会体制の不可欠な要件であることを論証した(『自由の条件』1960年)。確かに、ハイエクのそのような業績は、不滅といってもよいであろう。
そのように社会主義体制の欠陥を鋭く突いたハイエクは、いわば「返す刀」で、西側自由世界陣営の「福祉国家」システムをも痛烈に批判した。そのような彼の福祉国家批判論の皮切りともいうべき著書『隷従への道』(1944年)は、平易ではあるが、きわめて衝撃的な内容の本であり、現在でも、よく読まれている。この本は、その一つの特徴が、ケインズ的なマクロ的有効需要政策を全く無視してしまっているということであるが、そればかりではなく、福祉国家政策の弊害を防止するための諸種の政策的努力についても、あたかも、その可能性がありえないと決め付けているかのごとき黙殺的な態度で終始している。
ここで、ハイエクのそのようなスタンスに対しては、重大な疑念が生じてくる。すなわち、社会主義も福祉国家もダメ! ケインズ主義も否認! ということであれば、まったくの自由放任の市場経済であれば、それでよいのか? ということになるが、彼は、彼のかなり重要な論文で、自由放任の市場経済も、インフレとデフレとに振り回される不安定なシステムでしかないとも示唆しているのである。では、彼は、どのような経済システムが望ましいとして、その実現のための政策デザインや提言をしているのかといえば、実は、ほとんど何もしていないのである。無責任なニヒリズムとしか言いようがない。
実は、ハイエクには、そのような無責任なスタンスへの思想的裏づけがあった。彼は、ソ連やナチス・ドイツの全体主義的な社会主義命令経済体制を、「合理主義の思い上がり」の結果として生じたシステムだと結論した。西側自由世界における福祉国家主義にも、「合理主義の思い上がり」による弊害が山積していると見てとった。そして、そのような「合理主義の思い上がり」の淵源はデカルトやサン・シモンの思想にあると分析して、ついに、合理的な経済政策を策定・実施するといった「おこがましい」ことなどは、考えるべきではないと結論するにいたったのである(『科学の反革命』1952年)。
しかし、合理的な政策的実践をタブーとするにいたった彼のそのような「政策論的ニヒリズム」のスタンスは、なるがままに全てを放置・傍観するほかはないとする「決定論的・宿命論敵ニヒリズム」そのものである。これでは、マルクス主義の史的唯物論に基づく「歴史主義的な決定論的ニヒリズム」と同根である。また、合理的な政策の策定・実施を無用とするハイエクのそのようなスタンスは、社会主義革命運動を指導しながら、しかも、社会主義経済体制の合理的なシステム・デザインに取り組むことを「ブルジョア的空想主義」だと決め付け、それをタブーとして厳禁していたマルクス自身の奇妙な態度とも、酷似している。1917年秋の共産主義革命の直後から、いわゆる「戦時共産主義時代」のソ連の経済が大混乱の壊滅状態に陥ったのは、そのような不合理なタブーに邪魔されて、社会主義体制のシステム・デザインの準備がなされていなかったことが、主要な原因の一つとなっていたのである。
また、言うまでもなく、そのようなハイエクの「政策論的ニヒリズム」は、イマニュエル・カントやアンリ・ベルグソンといった巨匠哲学者たちが、透徹した思索の結果として示してきた形而上学的ビジョンならびに政策的実践と科学との役割分担的な相互フィードバック体系の構築による、決定論的ニヒリズムの超克というパラダイムとは、全く離反してしまっている。ハイエクが、そのような近代科学そのものの基本的特質を明らかにするための認識論哲学に立ち入ろうとはしないままで、しかも、あえて科学の合理性の意義を否認しようとしたように見えることは、不可解しごくであると言わねばならない。
新自由主義学派でのハイエクの無二の同志であったはずの経済哲学者カール・ポパーも、名著『歴史主義の貧困』(1957年)で、「決定論的ニヒリズム」を乗り越え、革命主義を排して、改良主義的な漸進主義的社会工学としての合理的な政策的実践を唱道してやまなかった。このことは、わが国の知識人たちにも、広く知られているところであろう。しかし、ハイエク後半生の思想スタンスは、ポパーのそれとは遠く離れてしまったようである。
虚心に考えれば、ケインズ的政策こそが、まさに、ポパー的な社会工学的政策論の模範例であると言いうるはずである。そして、そのケインズはと言えば、彼の若き日の力作『確率論』(1921年)において、確率的不確定性で充満されているかのごとき経済社会に対しても、むしろ、そのような確率的な法則を意図的に駆使することによって、合理的な経済政策を策定・実施することが可能であるはずだとして、そこに、「決定論的ニヒリズム」を克服する方法論が拓かれうると考えた。これが、後年の彼の代表作『雇用、利子、貨幣の一般理論』(1936年)によるマクロ的有効需要政策の確立を導いたのである。ハイエクとは反対に、人間の知性に基づいた政策的合理性を毅然として擁護したのが、ケインズであった。
ハイエクは、確かに偉大な経済思想家であった。しかし、彼は「決定論的な政策論的ニヒリズム」という邪路に迷い込んでしまっていた。そのハイエクを神格化して、ひたすらに「反ケインズ」や「反福祉国家」といった言辞を叫び続けてきた過去四半世紀のわが国の論壇の状況は、きわめて危険であると言わねばなるまい。
過去二十年近く、わが政府の経済政策スタンスは、新自由主義ないし新古典派経済学の政策論への追随であった。論壇やマスコミの主流も、それを肯定し促進しようと努めてきた。
新自由主義の最大のカリスマ的指導者は、言うまでもなく、ハイエクであった。ハイエクは、ミーゼスとともに、早くも1920年代後半の時期から、市場メカニズムを十分に活用しえない社会主義の命令経済体制では、合理的な経済計算が不可能になることによって経済の効率や作動が決定的に損なわれるにちがいないとして、早晩、そのような体制は崩壊するにいたるであろうと、鋭い批判的な予測を行なった(『集産主義計画経済の理論』、原書公刊は1935年)。これに触発されて、未曾有の大論争「社会主義経済計算論争」が戦後まで繰り広げられたのであるが、結局、学界の定説としてもハイエクやミーゼスの分析が正しいとされ、そして、まさに、そのような所論の通りに、ソ連・東欧共産圏の社会主義的な命令経済体制は滅びてしまったのである。ハイエクは、そのような彼の基本ビジョンの延長・拡大として、市場メカニズムと法治国家原則とが不可分であることを精緻に考察し、市場経済システムの存在こそが自由社会体制の不可欠な要件であることを論証した(『自由の条件』1960年)。確かに、ハイエクのそのような業績は、不滅といってもよいであろう。
そのように社会主義体制の欠陥を鋭く突いたハイエクは、いわば「返す刀」で、西側自由世界陣営の「福祉国家」システムをも痛烈に批判した。そのような彼の福祉国家批判論の皮切りともいうべき著書『隷従への道』(1944年)は、平易ではあるが、きわめて衝撃的な内容の本であり、現在でも、よく読まれている。この本は、その一つの特徴が、ケインズ的なマクロ的有効需要政策を全く無視してしまっているということであるが、そればかりではなく、福祉国家政策の弊害を防止するための諸種の政策的努力についても、あたかも、その可能性がありえないと決め付けているかのごとき黙殺的な態度で終始している。
ここで、ハイエクのそのようなスタンスに対しては、重大な疑念が生じてくる。すなわち、社会主義も福祉国家もダメ! ケインズ主義も否認! ということであれば、まったくの自由放任の市場経済であれば、それでよいのか? ということになるが、彼は、彼のかなり重要な論文で、自由放任の市場経済も、インフレとデフレとに振り回される不安定なシステムでしかないとも示唆しているのである。では、彼は、どのような経済システムが望ましいとして、その実現のための政策デザインや提言をしているのかといえば、実は、ほとんど何もしていないのである。無責任なニヒリズムとしか言いようがない。
実は、ハイエクには、そのような無責任なスタンスへの思想的裏づけがあった。彼は、ソ連やナチス・ドイツの全体主義的な社会主義命令経済体制を、「合理主義の思い上がり」の結果として生じたシステムだと結論した。西側自由世界における福祉国家主義にも、「合理主義の思い上がり」による弊害が山積していると見てとった。そして、そのような「合理主義の思い上がり」の淵源はデカルトやサン・シモンの思想にあると分析して、ついに、合理的な経済政策を策定・実施するといった「おこがましい」ことなどは、考えるべきではないと結論するにいたったのである(『科学の反革命』1952年)。
しかし、合理的な政策的実践をタブーとするにいたった彼のそのような「政策論的ニヒリズム」のスタンスは、なるがままに全てを放置・傍観するほかはないとする「決定論的・宿命論敵ニヒリズム」そのものである。これでは、マルクス主義の史的唯物論に基づく「歴史主義的な決定論的ニヒリズム」と同根である。また、合理的な政策の策定・実施を無用とするハイエクのそのようなスタンスは、社会主義革命運動を指導しながら、しかも、社会主義経済体制の合理的なシステム・デザインに取り組むことを「ブルジョア的空想主義」だと決め付け、それをタブーとして厳禁していたマルクス自身の奇妙な態度とも、酷似している。1917年秋の共産主義革命の直後から、いわゆる「戦時共産主義時代」のソ連の経済が大混乱の壊滅状態に陥ったのは、そのような不合理なタブーに邪魔されて、社会主義体制のシステム・デザインの準備がなされていなかったことが、主要な原因の一つとなっていたのである。
また、言うまでもなく、そのようなハイエクの「政策論的ニヒリズム」は、イマニュエル・カントやアンリ・ベルグソンといった巨匠哲学者たちが、透徹した思索の結果として示してきた形而上学的ビジョンならびに政策的実践と科学との役割分担的な相互フィードバック体系の構築による、決定論的ニヒリズムの超克というパラダイムとは、全く離反してしまっている。ハイエクが、そのような近代科学そのものの基本的特質を明らかにするための認識論哲学に立ち入ろうとはしないままで、しかも、あえて科学の合理性の意義を否認しようとしたように見えることは、不可解しごくであると言わねばならない。
新自由主義学派でのハイエクの無二の同志であったはずの経済哲学者カール・ポパーも、名著『歴史主義の貧困』(1957年)で、「決定論的ニヒリズム」を乗り越え、革命主義を排して、改良主義的な漸進主義的社会工学としての合理的な政策的実践を唱道してやまなかった。このことは、わが国の知識人たちにも、広く知られているところであろう。しかし、ハイエク後半生の思想スタンスは、ポパーのそれとは遠く離れてしまったようである。
虚心に考えれば、ケインズ的政策こそが、まさに、ポパー的な社会工学的政策論の模範例であると言いうるはずである。そして、そのケインズはと言えば、彼の若き日の力作『確率論』(1921年)において、確率的不確定性で充満されているかのごとき経済社会に対しても、むしろ、そのような確率的な法則を意図的に駆使することによって、合理的な経済政策を策定・実施することが可能であるはずだとして、そこに、「決定論的ニヒリズム」を克服する方法論が拓かれうると考えた。これが、後年の彼の代表作『雇用、利子、貨幣の一般理論』(1936年)によるマクロ的有効需要政策の確立を導いたのである。ハイエクとは反対に、人間の知性に基づいた政策的合理性を毅然として擁護したのが、ケインズであった。
ハイエクは、確かに偉大な経済思想家であった。しかし、彼は「決定論的な政策論的ニヒリズム」という邪路に迷い込んでしまっていた。そのハイエクを神格化して、ひたすらに「反ケインズ」や「反福祉国家」といった言辞を叫び続けてきた過去四半世紀のわが国の論壇の状況は、きわめて危険であると言わねばなるまい。
by niwa-haruki
| 2009-06-27 15:05
| 経済論

